幕末、鎖国の禁を破り命を賭して英国に密航した日本の若者たちがいる。「長州ファイブ」と言われる井上聞多(馨)、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、伊藤俊輔(博文)、遠藤勤助の長州藩士と、「薩摩スチューデント」と言われる新納久脩、松木弘安(寺島宗則)、五代友厚に率いられた総勢19名の薩摩藩士である。
1853年の黒船来航以来日本国中に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、井上聞多も伊藤俊輔も長州版攘夷派の中心メンバーであった。その井上、伊藤たち5人が長州藩そのものの近代化、富国強兵を図るために自分たち自身が“生たる器械”になるべく藩主の命で渡航したのである。彼らが横浜港を出たのは1863年6月27日。驚くべきことにその二日前の6月25日、長州藩は下関海峡を航海中の米国商船を砲撃し、攘夷を実行している。翌1864年8月その英仏米蘭の報復を受け(馬関戦争)を受け、改めて、西欧文明の実際に触れ、攘夷の愚かさを悟らされる。
薩摩もまた、1862年に生麦で英国人4名を殺傷し、その報復で翌1863年8月15日鹿児島が砲撃を受けた、薩英戦争である。この敗戦を通して西欧文明の威力と攘夷の愚かさを改めて認識し、富国強兵を第一義として開国への道を歩み始めた。そして、和議の場で賠償金の支払いに応じるとともに、留学生受け入れの斡旋を依頼したのである。
長州ファイブ、薩摩スチューデントを指導し、彼らを目覚めさせ学ばせたのがアレキサンダー・ウイリアム・ウイリアムソンという英国の科学者である。彼は、この日本の若者達に学問を教えたのではない。実践的な科学を学ばせ習得させ、実際の工場や鉄工所・印刷所、造船所や軍港を見せて、祖国の近代化に役立つ考え方と技術を身につけさせた。「異質の調和」を生涯の理念とするウイリアムソンは、夫人のキャサリンとともに彼らをまるで家族のように愛し、世話をし、生活の中から「西欧の神髄」を感じさせ、長州藩士・薩摩藩士を「ニッポン人」に変え、国家意識の中から祖国の近代化のための具体策を思い描かせた。まさに、ウイリアムソンは「日本の恩人」と言えるのではなかろうか。
薩摩スチューデントの中で最年少は13歳の磯永彦助である。彼は、日本には戻らず、英国から米国に渡りカリフォルニアで葡萄栽培をはじめた。彼こそが、後にカリフォルニアのワイン王(バロンナガサワ)と呼ばれた長沢鼎である。
ラーニング・システムズ株式会社
代表取締役社長 高原 要次